アートがあるから 〜東京←→NY 母と娘のアート通信〜

東京に住む母エリンギと、ニューヨークに住む娘シメジのアート文通

no art, no life 「あるがままのアート」展

no art, no life 「あるがままのアート」展/母エリンギより

9/4/2020

 

アール・ブリュットアウトサイダーアート)=正規の美術教育・訓練を受けていない

人の作品。

既存の美術とは無縁の文脈で制作された芸術作品・・・なぁんていうふうに

勉強したのだけれど、私が強く興味を持ったのはシメジが教えてくれた

「ヘンリー・ターガー」がきっかけだったと思います。

もう20年近く前?!

 

それまではアール・ブリュットは何となく無邪気なほほえましい作品群くらいに考えて

いたのだけれど「これは生易しいモノじゃないぞ!」とショックを感じました。

それからは作品展があれば見に行ったりしていましたが、今、こちらでは

そんなアートがにわかに人気となっています。

 

 東京藝術大学大学美術館 ≪あるがままのアート~人知れず表現し続ける者たち≫

 

これはもともとNHKで放送されていたドキュメンタリー「no art, no life」

で取り上げられた作家25人の作品を観ることができるもの。

今、ほとんどの美術館はネットでの日時予約が必要ですが私が予約を入れた時は

じゅうぶんに余裕がありました。

 

ところがこの美術展がテレビのアート番組で紹介された途端、会期末までの

予約は即完売!

一緒に番組を見ていたおトーさんが「俺も見に行きたい!」とアクセスしたものの

時すでに遅し・・・

まわりの友達にも「行ってみたい!」という人が何人も。

 

テレビで紹介された後は混雑する。というのは今や当たり前ですが、

こんなに反響が大きいのは珍しい。

私が行った当日も予約制にもかかわらずかなりの入場者数でした。

 

すでに国内外で発表されていて人気も高い作家たちということ。

仕上がりもきれいで完成度が高く、そこには家族やまわりのあたたかいサポートが

感じられ、ある意味「幸せな作品たちなんだなぁ・・・」

というのがはじめの印象。

 

でもその鮮やかな色彩やユーモラスなモチーフにもかかわらず 

どの作品も息苦しくなるような「何か」を発していて 

見ているうちに怖くなってくるような力があるのです。

 

それにしてもこの人気は何なのでしょう? 皆、何を見に来ているのかなぁ・・・

 

ドキュメンタリー(会場でも見られる)では作家たちの制作風景や日常生活が

伝えられています。

もしこのドキュメンタリーが無ければここまでたくさんの人の興味を惹かなかった

と思う。

「変わったモノ、ビックリするようなモノ」を見たいだけのかなぁ・・・と

ちょっと意地悪な眼で回りの人を見てしまった私。

 

シメジはどう思う?

今そちらではアール・ブリュットとかどんな感じですか?

考えたらあえてそんな括り方をするのは不思議だねぇ。

 

返信/娘シメジより

9/5/2020

 
アール・ブリュットの展覧会行って来たんですね。
 
入場制限がされているとは言っても、東京もニューヨークも、少しづつ美術館やギャラリーなどもオープンし出している感じですね。
コロナ真っ最中の春ごろは、何もかも閉まっていたから 美術館などが開いているというのは何だか未だに不思議な気がしてしまいます。
 
さて、お母さんの言う、アール・ブリュットの展覧会って、「みんな、変わったモノ、びっくりするようなモノを見たいだけなんじゃないかなあ」という意見ですが。
 
あながち間違ってないんじゃないかなと思うのです。
 
というのは、やっぱり「アール・ブリュット=生の芸術」ということですから、そこにはコンセプトや技術で塗り固められていない、生の感情、欲求、ストレートな人間の本質が作品として目の前にあるわけで。
 
普段、社会にある「こうしてはならない、こうするべき」と言ったルールや常識に縛られている私たちにとって、こんな剥き出しの「生の芸術」を目にするということは、それはやっぱり恐ろしい。
 
それは、普段隠されている(隠している)自分の中にも当たり前にある感情や欲求を、改めて目の前に提示されるという恐怖であり、改めてそれを確認できるという感動ではないでしょうか。
 
子育てをしていると、思うのです。
今食べたい、眠い、これが欲しい、こう言って欲しい、今抱きしめてほしい、大声で泣きたい、もっと愛して欲しい。
こんな素直な欲求や感情を、こんなにストレートに子供達からぶつけられて、なんて剥き出しな毎日なんだろうって。
 
人間の「あるがままの心」を目の前にすると、それを隠して、取り繕って生きている私たちには、それがとても怖くて、羨ましくて、眩しくて美しい。
 
多くのアーティストたちが晩年のピカソように、子供のような自由であるがままの作風に到達しようとするのは、そういうことなんじゃないでしょうかね。
 
どーなのかな。
 

 

 

 

 

はじめに。 

はじめに/娘より

 

このブログは、ニューヨークに単身移り住んで20年ほど経つ私と、産まれてからずっと東京で暮らす母が、それぞれの地から、アートにまつわるあれこれを、互いに宛てた手紙形式で綴っていくものです。専門的なアートアーティクルでは決してなく、幅広い分野のアートについて、独自の視点で考えたことや感じたことなど、つらつら書いていく予定です。


「母と娘の」ブログですので、まずは私と母の関係について軽く紹介したいと思います。



私の母は東京の下町で生まれ育ち、今もその生家に私の祖母(母方)、父、兄と共に住んでいます。祖母と祖父が若い頃に苦労して作り上げたこの家で私も生まれ育ちました。家の書斎にある美術書に囲まれながら、当たり前のようにアートの世界へと引き込まれていきました。そして21歳の時ニューヨークに渡り、気がつけば日本に住んでいた時間と、ニューヨークに渡ってからの時間が同じくらいになっています。


私がニューヨークに渡った理由は、一言で言えば現代アートに魅せられたからです。まだ私が美術短大に通っていた頃の東京は、現代アートに関する情報も、触れることのできる場所も圧倒的に少なく、「美術手帖に掲載されるアーティクルや、当時のワタリウム美術館原美術館などで必死に現代アートというものを知ろうとしていました。通っていた美術短大でさえ、アカデミックな授業内容がほとんどでした。


そんな中で、卒業間近に旅行で訪れたニューヨークには、現代アートに触れることのできる場所が当たり前のようにそこかしこに存在していて、またそこに住む人々の自由さ、街自体の熱量が、その時の私の目にはとにかく魅力的に映ったのでした。
そして若さの勢いで、卒業してからバイトをしてお金を貯め、ビザ諸々の手続きを進め、一年後にはニューヨークへと旅立ったのです。


母は、最後まで私の渡米に賛成はしていませんでしたが、旅立つときには私の情熱と努力を認め、快く送り出してくれたのでした。旅立つ直前に、空港で渡された手紙を飛行機の中で読み、こっそり泣いたことは今も忘れられません。


そして私はニューヨークで現代アートの仕事にありつくことができ、生活も落ち着いてきた頃に、なぜか母も現代アートに目覚めたのです。母は子育ての期間、アートから距離が空いていましたが、もともとデザイナーでありイラストレーターでもあったので、アート全般に関して詳しい方なのです。が、現代アートに関してはどこか無関心なところがありました。それが一転、その頃からアート検定なるものを受けてアートナビゲーターとなり、現代美術館などで作品ツアーを行ったりと、母もすっかり現代アート漬けの生活になっていったのです。

 


そんなふうにして、いつしか「アート」は、私と母の共通の何かになりました。

(いや、もしかしたらいつでも、私たちの間にはアートがあったのかもしれない。)

 


なぜ、あの頃急に、母は再びアートの世界の扉を開いたのだろう。

なぜ、母はアートに何かを求めたのだろう。

なぜ、私たちはアートを求め続けるのだろう。

 


若いうちから遠くへ来てしまったこともあってか、私と母の間には、色々と未解決な感情もあったように思うのです。これはだから、不器用だった私と母の、アートを通しての今更ながらの心の交流、何かのキャッチアップのようにも、思えるのです。


これから交代で、ゆるくアートにまつわるあれこれを書いていく予定です。アート作品を通して、母の心の軸がどのように動き何を感じ何を考えるのか、私も読むのが楽しみです。それではどうぞよろしくお願いします。

 
 
はじめに/母より
さて
子どもの頃のことはあまり憶えていないし、思い出したりもしないほうかもしれません。
それでも昭和30年代のわが家には「世界の名画」全集のようなものがあって、気にいった絵を本からはがして飾ってもらった記憶があります。
住んでいるのが上野に出かけやすい所だということもあって美術館や博物館に親しんで育ちました。
そんな頃から今にいたるまで私とアートの距離は近づいたり離れたり・・・・・
 
私はアカデミックな美術教育を受けてはいませんが、アートに関わるボランティア活動などを続けるなかで、作品はもちろんですがアートとその時代、そしてそれを受け取る人(鑑賞者)との関係にとても関心を持つようになりました。
 
今、以前のように気軽に美術館へ行くことも難しくなっていますが、これはある意味そんなことを考えるのに適した時間かもしれません。
そこへ娘から「アートをキーワードにブログを始めてみない?」の提案が。
 
私もこう書きましょう。
 
なぜ、娘はアートの世界の扉を開いたのだろう。
なぜ、娘はアートに何かを求めたのだろう。
なぜ、娘はアートを求め続けるのだろう。
 
どんなふうに展開していくでしょうか? 楽しみです。
どうぞよろしくお願いします。